キスをして、そして。









Kiss Me Good-Bye










静かな波音に包まれて、暖かな陽気に包まれて、流れるのは穏やかな時間。
休日の昼下がり。誘われて訪れた友人達の暮らす家。砂浜ではしゃぐ子供の声を聞きながら、平和だなぁとぼんやりと思う。このまま眠りたい気持ち半分と、眠っては勿体無いと思う気持ち半分と。
親友が子供に転ばされて、その衣服に砂を纏わせる。怒ったような、でもどこか嬉しそうな表情は本当に楽しそうで、見ているこちらも思わず頬が緩む。

「楽しそうですわね」
「ラクス」
「アスランもご一緒すればよかったのに。童心に返って、意外と楽しめるものですよ」

キラみたいに――そう言いながら隣へと歩み寄ってきた彼女に、苦笑を返す。
潮の香りの混じった風が優しく吹き付ける中、二人。浜辺に面したテラスに頬杖をついて、戯れている彼等の姿を見つめて。
ちらりと視線を横に向ける。
彼女の長い髪が風に攫われて柔らかに舞う。たったそれだけの事で、そこだけがまるで別世界のようだと思った。


――いや、それだけではなくて。


彼女は本当に幸せそうな眼差しをしている。
そんな瞳を、自分はかつてさせてやる事が出来ただろうか、向けて貰えていただろうか。否とは言わない、けれど是とも言えない。
昔の記憶など、もう美しく脚色されてしまって曖昧だ。

「そういうラクスこそ、行って来てはどうですか?俺の事は気にしないで…」
「まぁ、アスランは私にこの格好で走り回れとおっしゃいますの?」
「出来ない事はないと思いますよ…って、俺はドレスなんて着たことないので分かりませんが」
「でしたら、着てみます?」
「嫌ですよ、遠慮します」

軽く冗談を言って笑い合う。

「…アスランは、今日はお泊りになられるのでしょう?」
「ええ、そのつもりでしたが…」
「でしたら今晩はご馳走ですわね。腕が鳴りますわ」
「え?ラクスが作るんですか?」
「まぁ、私これでもお料理は得意な方なんですよ?アスランの好きなものだってちゃんと覚えてますし、作れるんだから」

ただ、そんな和やかな空気でさえ、一定の緊張の上に成り立っていて。

「…覚えて、いてくれたんですか」
「あ…」

嬉しさと、切なさと。
ハッとしたように口元を押さえたラクスは、困惑したように視線を泳がせた。
何も言わなければよかったと後悔するも時既に遅し、何か繕う言葉を…とも思うが、そう簡単に浮かんでくる筈もなく。
視界の端でキラが子供を追いかける姿が映る。無邪気な彼が羨ましい限りだ。彼ならこんな時、気の利いた言葉でもかけてあげられるのだろうか。
黙り込んだ彼女が何を考えているのかは分からない。少しでも、“あの時”の事を懐かしんでくれているのだろうか。

「いい…ところですよね、ココ」
「え?」

いいや、そんな事は今はどうでもいい。
いつまでも過去の事を引きずるのはもういい。

「静かだし、ああやって子供達の笑顔が見れて…」
「そう…ですね。皆さんもよくしてくれますし…とても」

だって彼女の心は自分にはないのだから。

「俺も…ずっと、ここに居れたらな…」

ポツリと漏らしたその言葉にラクスが軽く目を見開いていたが、生憎と思考の渦に浸り始めた自分には気付く筈もなく。
ずっとここに居れたのなら。
幸せだろうな。毎日が今日この時間のように過ぎていく。平穏な日々。
けれども自分がそれで満足するかと言われれば些か自信が無い。
元々自分はこうして考え込んでしまう性質だから、こうして余裕を持ってしまうと色々と思いを馳せる所がありそうで、落ち着かなくなりそうで。
今の生活にだって不満はない。満たされている訳でもないけれど。
ならばどちらがいいのだろうか。自分にとって、最善の世界とは、環境とは。


ふと、耳に。


「…ラクス?」

聞き慣れた歌声が聞こえた気がして、我に返る。
それは小さな歌声だった。ともすれば波音にすら掻き消されてしまいそうだったが、けれども確かに耳に届く。
聞いた事の無い歌。彼女のオリジナルか、或いは既存のものか。

「………」

声をかける事など、当然はばかられて。
歌い出しは静かに、ゆっくりと。段々と盛り上がりを見せるメロディーに乗せられる言の葉を、果たして彼女は どういった心境で奏でているのだろう。


Kiss Me Good-Bye ――サヨウナラのキスを。


知らず彼女を凝視して、その内に歌い終えた彼女は視線に気付いたのだろう、こちらを見上げ、恥ずかしそうに微笑んだ。
それはどこか浮世離れしている彼女にしてみれば、実に普通の少女らしい笑みだ。

「聴いていらしたんですか?ご自分の世界に浸られていたから、てっきり」
「あ、ああ…すみません」
「いいえ。でもつまりませんでしたわ。だから歌を」
「綺麗な歌でしたね、相変わらず」
「ありがとうございます。でも本当は少しだけ、久しぶりで自信がありませんでしたの。キラには秘密にしていて下さいね、今度聴かせる約束でしたから…知られたら怒られてしまいますわ」

言いながら、僅かに肩をすくめる。その光景があまりにリアルに想像出来るものだから、つられて思わず笑みが漏れる。

「でも初めて聴く歌でした。オリジナルですか?」
「いいえ、私の歌ではないのですけれど…」
「ああ、やっぱり」
「え?」

少しだけ驚いたような声。
どうして分かったのかという色が、その表情には浮かんでいて。

「…何となく、ですけど。貴女らしくないなぁとは思ってたんです…その、歌詞が…」
「そう…でしょうか?」
「いえ、その、素晴らしい事には変わりないんですけど…」

どこが、と問われれば困る。直感などそのようなものだ。
確かに綺麗だった。素晴らしかった。
優しいけれど切なさを帯びた雰囲気は彼女にとてもあっていると思うし、ゆったりとした曲調も彼女らしいと思うし。
でも、どこかで何かが。
彼女らしくない、と感じたのだ。やはりどこかと問われれば困る。

「あの…?」

思案するように目を伏せた彼女に、言ってはいけない事だったのだろうかと困惑する。怒らせたのだろうか。気を悪くしたのだろうか。
焦燥にかられる自分をよそに、彼女はその視線を遠くへと飛ばした。方向的にはキラ達の居る方だが、どうやらそこを見ているのではないらしい。
それは彼女の、ここにはない想い。

「多分、最初で最後だと思うんです」
「え?」

やがてゆっくりと口を開いた彼女は、恐らく初めて語るのであろう胸の内を。

「いつから歌っていたのかとか、どのくらいの歌を歌ったのかとか。本当はもう、覚えていないんです。だからきっと、覚えていない頃から覚えられない程の歌を歌ってきたんだろうなと…」
「……」
「いつもいつでも、歌う時は。私は誰かを想って、その誰かに想いが伝わればいいなと思っていました。誰か…は、特定の人であったし、不特定多数の人でもありました。でも、伝わればいいな…と。覚えていますか?2年前、私が歌っていた歌…ユニウスセヴンの追悼慰霊の」
「『静かな夜に』?」
「はい、あの歌は今だからこそ言えますけれども、アスラン。貴方を想って歌った歌なんです」
「…え?」
「もちろん、貴方以外の方達を想っていないと言えば嘘になります。ですが私があの時待っていたのも、笑って欲しいと願ったのも、アスランですから」

初めて知る、彼女の想いを。

「ですから、私。最初で最後なんです、きっと。この歌が…この歌が、自分の為に歌う唯一の歌」
「自分の…」

ああだからこの歌が、彼女らしくないと感じたのだろうか。
今まで誰かの為に歌っていた彼女が、自分の為だけに歌うのは。

「アスラン」

名を呼んだ彼女は、今度は身体ごとこちらに向いた。応えるように向かいあうと、彼女はそらすことなく真っ直ぐと見つめてくる。
アスラン、と、再度小さな声が響いた。

「貴方は、きっと、心の底では迷っていると思うんです。本当にここでこうして過ごしていていいのだろうか、と。貴方は時々、どこか遠くに想いを馳せる」
「ラクス…」
「ですが忘れないで下さい。貴方が踏み出せないでいても、貴方の前にはいつでも道が開けているという事を。そこをいつ進むのか、或いは進まないままでいるのか。進む必要があるのか、ないのか。それを決めるのは貴方ですし、もし歩きにくいとおっしゃるなら、私は貴方が歩みやすいように靴を用意して差し上げます」
「……」
「私、は…」

何故今頃そのような事を口にするのか。
浅はかな自分は。
未練がましい自分は。

「私は、貴方が居たから強くなれた。貴方のおかげで強くなれた」

彼女の声が震える。彼女が初めて自分の前で僅かに涙を浮かべた――尤も、雫となって流れはしなかったけれど。

「私は貴方を愛せてよかった…今でも、いつまでも、そう思っているのです」

楽しい記憶を思い出して。ああ、あの頃に戻れるのならば。
辛い記憶を思い出して。ああ、どうして自分はあの時ああしなかったのだろう。
そんな事ばかり考えて。
もしそれが叶うなら、彼女は自分の傍に居てくれたのだろうかとまで考えて。

「…なんて、すみません。厚かましい事を言ってしまって」

自分も同じだったのではないか。
彼女が居たから今の自分があって、彼女が居なければ弱い自分のままで。今の自分を強いと断言は出来ないけれど、それでも彼女を愛せてよかったと心底思う。

「…いいえ。むしろ聞かせて貰えてよかった」
「そう、言って頂けるなら」

自分も彼女も、もう過去形でしか言えない想いは、互いに気付かないだけで確かにそこに存在していたのだ。

「いつか…いつか絶対、貴方に言おうと思っていました。貴方との思い出を暖かい気持ちで思い出せるようになったら、その時に、と。実際、2年…もかかってしまいましたけれど…」
「そう…なんですか」
「けじめ…と言っていいのか分かりませんが。でも、私は貴方を愛していたと、貴方にちゃんと伝えておきたかったんです。けして婚約者だったからとか、そういうのではなくて、私は私の意志で、ちゃんと貴方を想っていたと」
「…ええ」
「アスラン」

風が吹く。髪が揺れる。
まるでここだけ世界から切り離されたような。

「厚かましいついでに、最初で最後のお願いを聞いていただけますか」













「あれ?アスラン…帰るの?泊まって行くって…」
「ああ…ごめん。今日は、やっぱり、ちょっと」
「そっか。残念。今度はいつ来れそう?」
「またすぐ連絡いれるから。お前もそろそろ手に職つけろよ」
「いいよ僕このままで。敢えて言うなら僕の職業僧侶ってことで」
「じゃあ修行しろ」
「日々生きてる事に感謝するのが修行だから」

そうして、友人と他愛ない会話を交わして。
沈みかけた太陽の光は赤く、周囲を照らす。子供達は疲れたのか大人しく家の中。ここにいるのは、自分と友人と、彼女。
少しだけ離れた位置に立つ彼女に視線を向ければ、相変わらずの笑みをその顔に浮かべていて。
この距離が、今の自分と彼女の距離なのだろう。遠い訳でもないが、近い訳でもない。

「アスラン」

縮まることもないが、遠ざかることもない。

「またいつでもいらして下さいね。お待ちしておりますから」
「はい、ラクスも…よろしければこちらにも遊びにいらして下さい」
「ええ」
「ちょっと待ってよアスラン。僕は誘ってくれないの?ラクスだけ?」
「では、ラクス。お風邪を召さないように気をつけて下さい」
「え?無視?」
「はい、アスランも」
「そしてラクスまで無視?酷くない?」












『最初で最後のキスをして下さい。私の、最初で最後の我侭です』









キスをして、サヨウナラ。










後書き

キラ様がお笑い要員と化してきていますが。

タイトルはFF12の主題歌でおなじみのアンジェラ・アキの歌から。
作中でラクスが歌ってた歌も、その歌だと思って下さい。
著作権があるので歌詞は載せませんが、詞の中の「あなた」がアスランで「私」がラクス、当然ながら「二人」はアスランとラクス。 文中でラクス自身はその旨を口にはしませんでしたが、ラクスはそのつもりで歌っていますし、アスランも薄々気付いています。

『新しい二人に変わるなら』

アスランとラクスの終わりであり、始まり。

そういう、独特の雰囲気を出せればいいなと思いながら。

ちなみにアスランがラクスにキスをしたのかどうかは、ご想像にお任せします。