この沢山の星空の下のどこかに君がいる

この沢山の星空の下のどこかに君といた


そんな場所がある


それだけで確かに君を感じられるのだ






《胡蝶ノ夢》

1:聴こえない歌声






「……綺麗ね…」
「そうだね」

 アークエンジェルの展望デッキ。そこから望むのは満天の星空と、月。そしてその僅かな光を反射して輝く海。その光景はあまりにも神秘的で美しく、ミリアリアは思わず感嘆に近い呟きを漏らした。
 支配するのは静寂。ここが戦艦でなかったら、着ている服が軍服でなかったら。世界中で今戦争が起きているなんて、信じられない程の静寂。夜とはこんなに静かなものだったか、穏やかなものだったか。知らなかった、気付かなかった。それとも、今日がただ単に特別なのだろうか。

「喜んでくれてよかった。たまにはいいかと思ったんだ、こういうのも」
「うん、ありがとう…嬉しい」

 こんな時間がいつまでも続けばいいのに、とキラは思う。ずっとこうやって、戦いという柵から逃れられていたら、友と穏やかな時間を過ごしていられたら、どんなにいいだろうか。きっとそれは幸せだろうに違いない。

“何も出来ないって、何もしなかったら…もっと何も出来ない”

 けれどそういうわけにはいかない事も分かっている。その道を選ばなかったのは自分なのだという事も理解している。
 決意をしたのは他でもない自分で、その自分が皆を巻き込んだ事も。
 迷い戸惑う者達を前に、自分はそんな彼等を懐柔したに等しいのだと。

「……キラ」
「ん?」
「ありがとう…それから…色々ごめん」
「……」

 それ故キラは、ミリアリアが礼と謝罪を述べたことに対して、困ったように苦笑を浮かべた。






 キラがミリアリアとこの場所に来たのはほんの少し前の事だ。
 と言うのは、そもそもキラはここに一人で来るつもりでいたのだが――オーブへの長い航路、色々と整理がつけたいと、だから部屋に篭るよりは開放的な場所の方がいいと思ったからだ。閉鎖的な場所はどうにも思考も消極的になりがちで、ただでさえ考える事は多いというのに、そんな憂鬱な雰囲気には浸りたくはなかった。
 そしてその道すがら、偶然通った食堂で。休憩中だったミリアリアを見掛けた。ぼんやりと、心ここにあらずな彼女を、キラは放ってはおけなかった。
 トールの事、サイクロプスの事、そしてキラの帰還。彼女が自分の帰還を喜んでくれている事を疑っているわけではない。しかしもし、彼女がそのせいで余計に落胆してしまっているのなら。或いは期待してしまっているのなら。
 恐らく自分が彼女の立場でもそう考えていただろう。そんな彼女を見て居た堪れなくなったのは、例え自分の保身の為だったとしても。
 友人として彼女が心配なのは、本当の事だ。彼女には元気になって欲しいと思うし、トールには悪いが故人に囚われるような事にはなって欲しくない。



「キラさぁ、私見て思ったでしょ?“ミリアリアはもしかしてトールも生きてるかもって信じたかな”って」

 ミリアリアが苦笑混じりに言ったその言葉に、図星をつかれたキラは小さく息を呑んだ。彼女にそんなつもりはないのだろうが、キラは自分のエゴを見破られた気がして、何と応えるべきか躊躇してしまう。
 まさか彼女自身からそう言われるなど、どうして思えようか。どうしてミリアリアは、そんな台詞を笑いながら言えるのだろうか。

「……」
「…ほんとは…ね。少しだけ、思ったの。でも…反面“そんな訳がない”って否定する自分もいてね…」
「トールは…」

 何と伝えるべきかと言葉を濁したキラに、ミリアリアはやんわりと首を振る。

「…うん、分かってるから」

 言わなくていい。言外にそう言うミリアリアの姿は、 キラに彼を思い出させた。
 戦場で。トールの乗った戦闘機が無惨に爆破する瞬間を。その一瞬前、遠目ながらに彼の血が飛び散る様も、無情にも自分の目はしっかりと捉えていた。正確に言えば、捉えたのはストライクのメインモニターだが、その様を凝視したのは間違いなく自分の瞳だ。
 さすがにその様を口にする事は憚られて、キラはその幻影を振り払うように頭を振った。そのキラの様子を見て、余程悲惨だったのかとミリアリアは一瞬悲痛そうな表情を浮かべたが、だから彼女にどうしろと言うのだろう。どうしてとキラをなじる事はもちろん、悲しみに涙を流す事さえ今のこの場では出来ない。その行為はどちらもキラを責める事になるのだ。
 彼も悲しい自分も悲しい、やり場のない想いにキラに向けていた視線を再び星空へと向け、 対照的にキラは視線を落として。
 そこに広がるのは暗い海。底の知れない冷たい海。

「…変わった、ね」
「え?」
「この艦変わった。トールがいなくなって、中尉とフレイがいなくなって…皆の雰囲気も少し、変わった」
「…キラは……フレイに会いたかった?」
「…そうだね」

 ガラス一枚隔てた向こう。もしこの隔たりがなければ、きっと潮の生臭い香りが頬を撫で付けるだろうに。逢えて嗅ぎたい訳ではないのだけれど、それでも何も香らないのは、どこか不自然で無機質な感じがする。
 ゆらゆらと揺れる波。
 きらきらと輝く光。
 その様を見つめ、ふと――水の塊が作るその暗闇の姿が、キラにはフレイの姿に重なって見えた。

「守って…あげなきゃならなかったのに」
「え?」
「……」

 冷たくて、けれど中に幾多の生命を抱えている海。抱えていても、自身が抱かれる事のない海。
 彼女は自分を優しく抱いてくれたけれど、自分は優しく彼女を包む事など出来なくて。

「守ってあげなきゃならなかったのに…側にいない」

 時に命すら奪ってしまう、冷酷な海。
 彼女が自分に望んでいた事を。その残酷な想いを、本当は心の底では分かっていた。

「それに…」
「それに?」
「守りたい…守ってあげたい人にはもう守ってくれる人がいて…なんか哀しいよね、そういうのも」

 ならば“彼女”は…自分に道を照らしてくれた“彼女”は。
 星か、月か――敢えて言うならば多分前者だ。
 月は満ち、欠ける。けれど星は空が曇らない限り輝き続けている。例え季節が巡り、その姿が見えなくても、またいつか、夜空で瞬く日が来るから。

“アスラン・ザラはいずれ私が結婚する方ですわ”

 隣に立つのは決して自分でなく。

“彼女は助け出す!必ず!”

 また、そういう日が来ると信じているわけでもない。
 “彼等”が並び立つ姿は、一種の憧れを抱かせる。あんなに絵になる二人を、自分は嫌いになれる筈もなく――もしそれで“彼女”が幸せなら、笑ってくれるなら、それでもいいと思える程だった。

「…ねぇ、キラ」
「何?」
「それって……」
「うん」
「…やっぱりいいや、ごめん」

 少し躊躇いがちに口を開いたミリアリアは、しかしそのまま小さく首を振ると、溜め息とも吐息ともとれない息を一つついた。
 守ってあげなきゃならない人と、守ってあげたい人。その違いは一体どこにあるの?
 そう問おうとして、けれども言葉にならなかったミリアリアの問いはキラに届く筈もない。
 中途半端に言葉を区切ったミリアリアに、キラは怪訝に首を傾げるも、彼女はどうやら再び問い直す気はないらしい。口を閉じ、遠くを見つめる彼女は一体、何を思っているのだろうか。それは多分、キラには一生分からない。

「ミリィ…は」
「え?」
「トールを殺した人が…憎い?」

 そんな彼女にキラは問う。不意の質問に彼女は弾かれたようにキラを見上げる。それから思案するように僅かに瞳を伏せ、 自身で答えを探るようにポツリと言葉を漏らす。

「…そんな事いきなり言われても、分からないわ。憎いかもしれない…けど、でも今は分からないの」
「そっか…ならもしさ、僕がトールを殺したとしたら…ミリィは僕が憎い?」
「…キラ…が?」

 振り向いて、疑心の眼差しを向けてくる彼女に、キラは「例えばだよ」と苦笑すると、彼女はしばし考えるように眉を寄せ、それからまた「分からない」と言った。
 そもそもそんな有り得もしない“もしも”の話をされたとして、彼女が困惑するのも当たり前だろう。

「何で…急にそんな事聞くの?」
「…さぁ…何でだろ」
「何それ…」

 眉根を寄せる彼女にはぐらかすように苦笑を浮かべるけれど、問いの理由などキラにとっては一つしかない。

“お前がニコルを…ニコルを殺した!”

 彼女は彼が自分の親友だと知ったら、どう思うだろう。トールを殺したのがアスランだと、知ったら。
 恨まないで、とキラは思う。憎まないで、とキラは願う。
 キラにとってはアスランもミリアリアも大事な人だったから、アスランにミリアリア達を理解して欲しいと思うし、ミリアリア達にもアスランを理解して欲しいとも思うのだ。
 それこそ、アスランを知っているのはキラだけなのだから、ミリアリア達にとっては不快な事なのかもしれない。彼はトールを討ったし、それ以前にも煮え湯を飲まされてきた。
 逆にアスランが知っているのはキラだけだから、彼がミリアリア達を解ろうとするのは難しい事なのかもしれない。彼はユニウスセブンで母を失うという辛い過去を負いラクス・クラインを人質にとられるという苦い現実を見、そして唯一の知人であるキラに友人を殺された。
 だけどキラは信じたい。それが、“彼女”が教えてくれた事だから。同じヒトである限り解り合えない筈がないと、“彼女”が言ったから。

「たださ…思ったんだよね」
「え?」
「相手を知らない方が憎いのか、知っている方が憎いのか。或いは知らないから憎めるのか、知っていても憎めるのか」
「キラ…?」
「……」

 彼は自分と他人と、もし両者が同じ立場にあるならばどちらをより憎めるだろう。
 彼は相手が自分だから、憎んだんだろうか。自分でなくても、憎んだんだろうか。

「そういえばミリィ、ラクスの歌、聴いた事ある?」
「ラクスさんの?何、突然?」
「いや、何かいい歌だよなぁって。で、聴いた事は?」

 フルフルと首を振るミリアリアに、キラは「そっか」と頷いた。本当に綺麗な歌なんだよ、そう言いながら思い浮かべる歌は、彼女の歌声を初めて聴いた時の歌だ。
 優しくて無垢で、思わず胸が温かくなるような。

「“静かな夜に”っていってね…追悼慰霊の時に歌った歌なんだって」
「ユニウスセブンの」
「うん…アークエンジェルでも、たまに歌ってたよ」

 目を閉じればすぐに“彼女”を思い出せる。
 ああ彼女は今、何をしているのだろう。無事でいるだろうか。
 いつも微笑んでいてくれた彼女が窮地に陥る様子というのは些か想像出来なかったが、だからと言って有り得ない話とういう訳ではない。彼女が与えてくれた自由という名の剣は、しかし合法的に与えられた訳でない事はさすがにキラにも明白だった。
 危ない橋を、彼女は渡ってくれたのだろう。

「聴きたいな…私も。あの人の歌…」
「聴けるよ、いつか…聴ける日が来るよ」
「そうね…」

 誰よりも、その日を望んでいるのは自分で。
 この暗い空の向こう、その何処かに彼女がいて。そして彼女といた、場所がある。平和で穏やかだった場所がある。
 次に彼女と出会う時は、それはもしかして明日明後日の出来事かもしれないし、数年先かもしれないし、二度と会う事もないかもしれない。
 未来は何も、誰も、分からない。
 けれどいつも願うから。願っているから。いつか会えるように、その温もりをもう一度。
 まだ鮮明に覚えている、その彼女の歌に想いを馳せるように、キラは瞳をそっと閉じた。





 出会いは今も、導かれている。













加筆修正・2006/12/10


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