触れられない だってこの手は 血に濡れていて 汚してしまわないかと不安だった 《胡蝶ノ夢》 11:消えない傷痕 アスランを通路で見掛けたのは、丁度頼まれていた仕事を終えた後だった。 メンデルでの作業――補給やら整備やら、その報告と確認のために休憩中の艦長の元へ。「仮にも休んでる女性の部屋に男性が入れないだろう」というのが周りの言い分だったが、つまりは単なる押し付けだ。確かに、彼等の言う通り艦長に何かあっては一大事だけれど。 そしてそこで運が良いのか悪いのか。目に入ったのがアスランの姿。通路に一人で座り込んで、俯いているアスランの姿。 声をかけるべき? それとも、気付かない振りをするべき? 自然と早くなる鼓動の音を自身で感じながら、ミリアリアは目を細め、アスランの横顔を見つめた。 細めた視界には、アスランしか映らない。俯いているため表情は見えないけれど――何と無く、震えているように、泣いているように思えて。 「…アスラン?」 雨に打たれた子犬のような彼を、放ってはおけなかった。 独りなのは… 貴方? それとも… 私…? 「ごめん…けど、もう少しこのままで…」 気が付いたら彼の腕の中。震えが、体温が、服越しに直に伝わってくる。 抱き締められたと。理解するのに時間を要したのはあまりに突然だったから。抵抗しようかどうか、一瞬迷った。 父親への切なる想いを断ち切れずにいるアスランを…何とかしてやりたいとは思うけれど、頭の中を亡き恋人の影がよぎる。 彼――トール以外の男の人に、抱き締められた事はないし、抱き締められたいとも思わない。自分はまだ、彼を忘れてはいなかったから。 ――でも… それでも、振りほどけない。 アスランの腕の力が強いせいもある。けれどそれだけじゃなくて、震えているアスランが――肩に僅かに感じる冷たさから、泣いていると分かったから。 自分は彼にとってキラやディアッカ程親しいわけでもなく、その上“トールを殺した”と負い目を背負っているだろうに、それでも涙を見せてくれた事。弱音を吐いてくれた事。それはきっと、簡単に見過ごしていいものではないのだろう。 彼は、そんな自分にすらすがってしまう程に、追い詰められていたのだろうか?それともそんな自分だからこそ、すがってくれたのだろうか? どちらでもいい、ただそう考えると同時、胸が締め付けられるような気分になる。 「……っ!」 「…アスラン」 フッと、ミリアリアは強張っていた肩の力を抜いた。当然抵抗する事も止めた。 これ以上、彼の傷を広げる事は、例え恋人を殺した相手とはいえ出来る筈もない。元よりその件に関しては、もう解決済みなのだから。 トールが死んだのはアスランのせいじゃない。ましてやキラのせいでもない。 戦争――全ては一部の人間の傲慢が生んだ、悲しい争いのせいだと。 何と無く、空いた手をどうしようかと迷った末、ミリアリアはゆっくりとアスランの背中にソレを回した。そして子供をあやすように、一定のリズムで軽く背中を叩く。 大丈夫。貴方はココにいて、私もココにいる。私は貴方の傍にいる。 私は、ちゃんと貴方の事を考えているから。 言葉にこそしないけれど、心の中で、そう繰り返しながら。 それに応えるように自分の背中に回されたアスランの腕に、ギュッと力が込められた。 それはまるで錯覚。 時が止まっているのではないかという、そんな錯覚。 一体、どれくらいの間そうしていただろう。 「…すまない」 ようやく落ち着いたらしいアスランが離してくれた体は、自分でも驚くほど彼の体に馴染み過ぎていて。 離れた事を、温もりが失われた事を、寂しいと思ってしまう。その己の思考に恥ずかしくなって、しばらくアスランの顔を直視出来なかった。 「…あ…うん…」 視界の端に捕えたアスランも、今更照れたように頬を赤らめていた。互いに気まずくて、戸惑ったように視線を泳がせる。 訪れた沈黙に、どうにかしなければならないのは分かっているが、どうしたらいいか分からない。今すぐここを去るような急ぎの用もなければ、けれどもだからといって、いつまでココに座っているべきなのだろうか。 「……」 「……」 何か話をしようにもこういう時に限って話題が見付からない。 ちらりと一瞥するように、ミリアリアはアスランの方を窺う。彼はこちらを見てはいない、その視線がどこか遠くに向けれらている気がして、その存在すらどこか遠くに感じられた。 そして不意に――宵闇に似た、彼の紺碧の髪と深紅の軍服が同時に揺れて。アスランが立ち上がったのだと理解してミリアリアが見上げれば、先の瞳が自分に向けて優しく細められていた。 「…ほら」 差し出された手の意図を理解するのにしばし時間がかかったのは、別にその姿に見惚れていたせいではないけれど。 ザフトの紅。それを纏うアスランが、何だか知らない人のように感じられて、一瞬だけ躊躇してしまう。 出会った事、“現在”を共有している事、全てが夢のように思えた。 「…ありがとう」 戦争がなければ出会う事のなかった、皮肉な関係。彼等と自分達の間には、どう足掻いても消えない境界が引かれている。 それはずっと、見えないキズアトになって。 「すまない。付き合わせて…悪かった」 「ううん…私なんかでよければいつでも聞いてあげるから」 それでもこうして交わす微笑みは。触れ合った手の温もりは。偽物なんかじゃない、本物だった。 「…キラは…」 「え?」 「キラは近すぎて、怖い…。だから…君がいてくれてよかった」 「…うん」 再び遠くを見るような彼の瞳。そのアスランが誰を想っているかのか何を考えているのか、その時の自分には気付くはずもない。気付きたくても、分からない。 紅の軍服が物語る軌跡も実績も、キラの緑の鳥が物語る二人の思い出も、その間の空白の時間も。知っていたら、もしかしたら解るのかもしれないのだろうけれど。だけど今はまだ知らなかったから。 ――それを寂しく感じるだなんて… もう今はこれ以上アスランとはいられない。いてはいけない。いては何かが変わってしまう気がする。 頭の片隅でそう警告する自分を感じ、無意識の内にミリアリアは辞去の言葉を口にしていた。 それじゃあ、と。踏み込めない領域に入ろうとする自分が酷く恐ろしかった。 「私、もう行くわ。アスランも休めるうちに休まなきゃ」 「…ああ」 踏み出す足。知らずその速度が速くなる。 また――鼓動が早鐘のようにドキドキいっていた。 「…ミリアリア!」 声――背中から聞こえる、アスランの声。 「…お休み」 ああどうして呼び止めるのだろう、黙って見送ってくれればいいのに。 「…お休みなさい」 振り返る事も出来ず、返事だけを返して駆け出した。一刻も早く去りたかった。 アスランといるとおかしくなる。思考がずっと、彼の事ばかり考えてしまう。 自分はトールの事を片時も忘れたくはないのに。常に彼との思い出とありたいのに。 ずっと、アスランと自分の距離ばかり考えて。彼の痛みばかり考えて。 「何で…っ」 自分が好きなのは茶色い、少しクセのある髪。なのに心の中には宵闇の紺碧色。 違うと、振り払うように首を振っても、目をつむれば屈託のない笑顔ではなく儚い微笑み。 ――違う…っ! 違う。決して。 これはトールに抱くような、恋心なんかじゃない。ただの同情。 親友に仲間を殺されて、父親を討たねばならない彼をただ心配してるだけ。 “君がいてくれてよかった” どうしてそんな事を言うの? どうして私にそんな事を言うの? 割り当てられた下士官用の部屋に辿り着き、ミリアリアはそのままベッドに倒れ込んだ。 枕に顔を埋めて、息が出来ないくらい、強く――強く。 “…お休み” 彼はきっと、笑っていてくれたのに…。 ああ、そうか…。 彼の――アスランの瞳は私の大好きな彼と同じ、翆緑の瞳だから…。 今のところまだアス→ミリって感じで。 加筆修正・2007/1/3 BACK / TOP / NEXT |