たった一言だけ



君の言葉が 欲しかった


優しい言葉が 欲しかった






《胡蝶ノ夢》

8:邂逅の刻






“信じて戦うものは何ですか?”


 あの時のラクスの言葉が。


“君はまだ死ねない”


 キラの言葉が。


“見損なったぞ、アスラン!”



――頭の中を木霊する。







「……」

 一体自分は何がしたかったのだろう。
 裏切り者と罵られ、実の父親に銃口を向けられ、こんな結末は分かりきっていたというのに。自分のような小さな存在が父のような人物に抗えるわけがないというのに。
 分からなくなるのだ。父と、父の側にいる人達を見ていると、この先の事すべてが。目隠しをされたように、見えなくなる。

「…アスラン」

 新造艦エターナル――そこに割り当てられた一室。この艦の外に広がる宇宙は、あの時ミリアリアと見たものと全く同じ、静かで雄大で。

「ラクス…」

 物思いにふけっている自分に声をかけてくる元婚約者。半重力の中揺れる彼女の髪――以前と違い、一つに結い上げられたソレは、何と無く知らない人のような気分になった。
 いつも会えば噂に違わぬ妖精の様な笑みを浮かべ、彼女の周りだけまるで時間が止まっているのではと錯覚してしまいそうな、そんな空気を纏っているのに。今は違う。
 まっすぐ先を見据える瞳は、あの幼馴染みで親友の彼に、よく似ていた。

「…キラに、お会いになれたのですね」
「…ええ、ラクスのおかげです」
「それはよかったですわ。お役に立てて光栄です」

 ニッコリと、やはり彼女の笑みは天使のようだ。迷い苦しむ人を癒し、導き、明るい未来へと誘う。そんな彼女は もう妖精ではないんだなと、そう思うと知らず苦笑が漏れる。
 お伽噺の妖精のように、ただ可愛らしいものではない、人々に希望を与える、それこそ“天使”の名にふさわしいと、思っているのは自分だけじゃないはずだ。だから皆、彼女に賛同し、従うのだろう。彼女を支えようと思うのだろう。

「…アスラン、変わりましたわね」
「…え?」
「何と言うか、空気が優しくなりました。以前はどこか他人に一線を引いた感じがありましたのに…」

 そう言いながら、小さく首を傾げるラクス。そんなラクスの言葉にアスランは僅かに頬を赤く染めると、気恥ずかしそうに視線をそらした。
 人間、面と向かって称賛の言葉を言われると気詰まりするものである。要するに“照れ”なのだ。

「やはりキラのおかげですか?」

 そして当然、ラクスはそれがアスランがキラと和解したからだと、そう解釈して。

「…そう…かもしれませんね」

 少なくとも、それは間違いではないだろう。確かにキラがアークエンジェルにいなければ――それ以前にヘリオポリスで再会しなければ。
 戦争という行為に、疑問すら抱かなかったかもしれない。
 けれど実際に会ってしまったから、悩んで苦しんで悲しんで、慟哭した。何故という問いを胸に抱き、そして今ここに立っている。

「アイツは…アイツが変わらないから、俺も変わらないでいられる…昔の自分を、取り戻す事が出来た」
「……」
「…でも…」

 言葉を濁すアスランを、ラクスはただ静かに見つめていた。その顔は慈愛に満ちたもので、それは以前に劇場で、アスランを静かに見据えた時と同じ瞳だった。
 先を促すわけでもない。応える事を強要するでもない。ただ、アスランが自分から言葉を発するのをジッと見守るだけ。だからアスランはゆっくりと自身で自身の答えを探すように、ポツリポツリと言葉を口にする。

「…もちろん、キラだけじゃない…」


――死なないでね…


 言って、アスランの脳裏に浮かぶのはそう言いながら気遣わしげな表情をした少女――自分が変われた一番の要因は、彼女だと自身で思っている。彼女の言葉は存在は、とても印象的でいつまでも脳裏に残っている。

「…キラ…だけじゃない」
「…そうですわね。そして皆さんの想いがアスランに届いたように、アスランの想いもまた、きっと皆さんに届いたに違いありませんわ」
「…ラクス」

 そっと、ラクスがアスランの手を取った。包み込むように両手で握られ、その唐突な行動にアスランは僅かに目を見開く。
 俯いているラクスの表情は、アスランからはよく見えない。

「…そして私の想いもアスランと共に。アスランの想いも私と共に。私達が向かうべき未来は、皆同じだと信じています」
「…ええ」

 向かうべき未来は“平等”な平和だと。
 言外にそう言うラクスは、それから小さく笑い声を立てる。

「なんて、おかしいですわね。婚約を解消した後の方が解り合えるなんて…」

 ぎくしゃくしていた婚約者時代。彼女はいつだって手を差しのべてくれていたのに気付けなかった、気付こうとしなかった――彼女の言う通り、一線を引いていた自分のせいなのだけれど。
 顔を上げたラクスの笑顔は、相変わらず天使の笑みだけれど、けれど本当に普通の女の子の笑み。そんな事にさえ、今更気付く自分が情けない。

“私、あの方好きですわ…”

 そしてきっと自分とは違い。キラはその人の肩書きや名前などに囚われず、彼女を“クライン家令嬢”ではなくただの“ラクス・クライン”として見ていたのだろう。そんな彼だから、彼女もキラに好意を抱くのだろう。
 簡単な事じゃないか、と思う。
 人が人を信用し、好く事は簡単な事ではないかと。

「…俺も、そう思います」
「……」
「…ラクス?」
「…あ、いえ。あなたがご自分の事を“俺”とおっしゃって下さいましたから…今までずっと私の前では“私”、でしたでしょう?」
「それは…その…すみません」
「謝らないで下さいな。私、嬉しいんですのよ?あなたとの距離が縮んだ気がして」

 握っていた手を、そこでラクスはようやく手放した。笑う、ラクスの髪が揺れる。
 どうして自分は彼女を愛さなかったのだろう。愛せなかったのだろう。

「…これからはあなたも私も自由です。互いに愛し愛され、幸せであれるよう…」
「…貴方に愛される人は幸せですね。俺でなくて残念です」
「まぁ、それは告白として受け取ってよろしいんでしょうか?」

 コロコロと笑う彼女はやはりとても愛らしくて、暖かくて。そして優しい。
 どうしてだろうか、その優しさに甘えていれば楽だったのに。その慈愛に“つけ込んで”いれば楽だったのに。人を愛する煩わしさも、何も感じずに済んだというのに。
 どうしてだろうか、どうして自分は彼女を本気で愛さなかっただろう。その理由など、本当はもう分かっているのだろうけれど。

「告白です。…俺は俺なりに…貴方を愛していました。それが例え義務でも逃避でも…貴方を支えとして生きてきました」
「…アスラン」
「…今まで、ありがとうございました。俺は心から貴方の幸せを祈っています」

 御礼は同時に謝罪。この弱い心に縛られているにも関わらず、その弱い心を縛り付けていると罪悪を抱く彼女への謝罪。

「…頭を上げてください、アスラン」

 ラクスに向かって頭を下げるアスランに、彼女は戸惑ったような声色で告げる。よもやアスランがそんな行動をとるとは思わなかったのだろう、人の感情に疎いアスランにさえ、その動揺が簡単に見てとれた。

「私はあなたにそのような事をされる、綺麗な人間ではありませんわ…」
「…綺麗です。貴方は俺にとって、永遠に綺麗で汚れのない存在。けれど、それ以上にはなりえないんです」

 ようやく、その手を離す事が出来る。彼女が望む道を、自分が望む道を、それぞれ歩む事が出来る。
 述べるのは遠回しな決別。二人の関係は、事実上も精神上も、これで完全に離別してしまった。
 だからと言って、悲しいわけじゃない。男女の関係は色恋だけではないし、今から新しい関係を築けばいいだけだ。

「…私も、あなたに恋する自分に恋を見い出そうとしていました。あなたと同じです」
「…お互い、情けないですね。まったく…」
「ええ…でも、あなたが好きだった気持ちは変わりません。もし違った未来があったのなら、私はきっとあなたの隣で笑っていたに違いありません。そしてそれが幸せだと感じているでしょう事も」

 疑わない事もまた、幸せな事なのでしょう。そう言って、ラクスは少しだけ寂しそうに微笑んだ。そうですね、としか返せなかった。
 ラクスが居て、その隣に自分が居る。子供も居たのかもしれない。そう言えば昔、少しだけそんな話をした事があったけれど。そんな将来は、きっともう二度と訪れない。彼女が願わないから、自分が願わないから、だからそんな将来は訪れない。
 彼女がその来ないであろう未来を少しでも惜しんでくれているのなら、自分達の過ごした時間は無駄ではなかったのだと、救われる心地だ。

「いつか近い将来、貴方の隣に並ぶのがキラだと…信じていますよ」

 小さく告げた言葉に、ラクスは僅かに頬を朱に染める。恋する少女の表情だった。

「…それでは私、そろそろブリッジの方へ行きますわね。アスランは怪我もありますし、ゆっくり休養なさって下さい」
「…はい」

 辞去の言葉と共に一礼して背を向けたラクスを、不思議なくらい穏やかな気持ちで見送る。
 父に撃たれた事実を、忘れたわけではないけれど、今はそれよりこの余韻に浸っていたかった。

「…アスラン」

 戸口に手をかけ、不意にラクスが振り向く。そして次に彼女の口から放たれた言葉は。

「アスランが私にして下さった告白…そう思わせてくれたきっかけは、やはりキラなのでしょうか?」
「……」

“でも忘れないで…貴方が殺した人の事。…トールの事…”

「…いえ」

 忘れられなくて、忘れたくなくて――忘れて欲しくない。
 忘れないのはむしろ君の事だと。

「…俺に気付かせてくれたのは、貴方自身ですよ」


 そう言えれば、いっそ楽なのかもしれないけれど。













ロイヤルな二人が交わす言葉はエレガントを通り越して、もはや臭いです。
トレーズ閣下もお喜びになられるでしょう。


加筆修正・2006/12/29


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